【つれづれ】ネットの世界で名乗りたくない「私」
もし世の中の人から名前が失われて
たとえば番号や記号で管理されるようになったとき。
もしくは名前さえも無くなってしまったとき。
それでも私は今好きな人たちを好き、と言えるのだろうか。
一個人がマーケティングをするようになり、
インフルエンサ―がまつりあげられるようになった今でも
私が好きなのは、「名前を名乗らない」はてな匿名ダイアリーだったりする。
そこには、文章に乗り移った「こう見られたい自分」が薄れているから。
たった一つの記事からはその人のほんの一部分しか見えてこない。
別にこの記事を書いたのが自分であることを主張したいわけでも無い。
「外に向かって呟かずにはいられない文章」を
「自分と切り離して」書いてるところにこそ本音があるんだ。
ぽろりと見えた本音が、
地面におちてぐしゃぐしゃになってしまわないように
拾い上げたくなる。
noteや、アフィリエイトのためのブログも
もちろん読んでいて楽しいし、文才のある人を見ていても楽しいけれど
その裏にある思い、自己顕示欲や、人から見られたい表の顔ばかり見えて
ほとほと疲れてしまう。
2000年代の感覚を捨てきれないまま生きているので
これでメシを喰おうとか、なんとかしてやろうという心もちの少ない
日常のささいなことをたらたら書いて、
でもその中に本音が詰まっている、そんな文章が心地よい。